徒然備忘録

どうでもいい雑記。

世界と少女の話

セカイ系における主人公とヒロインの関係性を前提として、
セカイ系のゴールに第三の選択肢を考えてみる。
まず、大まかな問題意識はこうである。
セカイ系作品群における物語の着地点は、


1、世界を救ってヒロインを見捨てる
2、ヒロインを救って世界を見捨てる


という二通りのパラドックス構造となっている。
セカイ系とは、なんとも殺伐とした世界なのである。
そこで第三の選択肢と疑問が浮かび上がってくる。
つまり、世界もヒロインも救ったらセカイ系として成り立つのか?

 

3、世界を救って、ヒロインも救う

だって、みんなに幸せでいて欲しいじゃん。

まず、第一の選択肢「世界を救ってヒロインを見捨てる」について。
セカイ系とは、「主人公とヒロインの小さな関係性(個人)が、
具体的な中間項(社会)を挟むことなく大きな問題(世界)へと発展していく」
形態をとる作品群の総称であると定義されている。(※動物化するポストモダン
セカイ系作品群のヒロインたちは、殆どの場合、
過酷な運命の背景に立たされている。

それは、セカイ系におけるヒロインの立ち位置が、
他ジャンルにおけるヒロインの立ち位置と明確に異なっているからだ。


セカイ系ヒロイン=世界観と直結
・他ジャンルにおけるヒロイン=世界観とは直接関係がない


このようにセカイ系のヒロインたちは、その存在自体が世界観と直結している。
ヒロインが世界そのものなのである。
たとえば「イリヤの空、UFOの夏」では、ヒロインは地球外生命体から
地球を守ることのできる唯一のパイロットである。
この世界が存在しているのは、彼女が人知れず地球外生命体と戦い続けている
からで、
このような設定自体は「新世紀エヴァンゲリオン」とも符合する。


ヒロイン=世界を守る絶対存在


ヒロインが戦いをやめてしまうと、世界は崩壊する。
世界の未来は、彼女の一挙手一投足が決めてしまう。
大衆が意識していないセカイ系ヒロインとしては、「涼宮ハルヒ」がいる。
彼女は「ヒロイン=世界」という上記のセカイ系的な構造を
さらに先鋭化させた形をとったものである。

イリヤに話を戻す。
最終的に「イリヤの空」のヒロインは、主人公とのかけがえない日常を捨てて、
愛する人の暮らす地球を守るために戦い続けることを選択する。

この選択により、物語上からヒロインが消失する。
ヒロインの消失は、世界の消失であり、物語の消失だ。
「世界観そのもの=世界」であるヒロインが物語上から姿を消すと、
物語は存続できない。
こうなってしまうと、「世界を救ってヒロインを救う」ことが構造上不可能
であることがわかってしまう。

 

では、第二の選択肢「ヒロインを救って世界を見捨てる」について考えてみる。

まず、ヒロインを救う、とはどういうことだろうか。
「救う」という定義の問題にはしたくない。
セカイ系におけるヒロインの救済とは、すなわち世界との接続を断つ、
ということだ。
彼女が苦しんでいるのは、世界か個人かというパラドックス構造であるから、
片方の選択肢が潰えることでこのパラドックスを解消できる。

問題は、世界との接続を断ったあとに訪れる。
上記の「イリヤの空」を再び例に取る。「イリヤの空」のヒロインの救済は、
「戦いの放棄」ということになる。
確かに、一線から離れた彼女は幸せかもしれない。
主人公との日常を謳歌することもできたかもしれない。
しかし彼女は、地球外生命体と戦うことのできる唯一の存在なのだ。
彼女が戦いを放棄する(救済する)ことは、
つまり世界を放棄することになってしまう。
ヒロインを救う選択を行うと、救済が行われたあとに、
必ず世界が消失する構造になる。

これでは、第一の選択肢と同じ…と思うかもしれない。
しかし、第二の選択肢では、救済と世界の消失の間のモラトリアムを
提供することができる。

救済 → モラトリアム → 世界の消失

このモラトリアムこそ、彼女を救済した意味である。
つまり、第三の選択肢は、第二の選択肢に内包されていた。

そもそもセカイ系には社会が存在しない。なら、私利私欲に生きてもいい。

死ぬ瞬間が幸せならば、それでいい。

結論として、第三の選択肢は存在しないが、ヒロインを救うことは可能である。

セカイ系における真のハッピーエンドとは「ヒロインを救って世界を見捨てる」の
選択肢にあると思っている。
が、いかんせん、こちら側の選択肢をとる作品は多くない気がする。